昭和四十五年六月二十九日 朝の御理解
御理解第三十六節 「日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ。人に物を頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。」
昨日は筑水の信徒連合会の共励会が、ここであのように盛大に出来ました。もう一番最後に私がお話をする頃には、もう一番向こうまでいっぱいでしたねえ、
大祭のようでした。
昨日の朝の御理解に本当云うたら、この田植えの真っ最中にしかも久留米地区
甘木地区の云うなら農村が中心であるところの人達が集まって来るのですし、まあ田植えは今を盛りでございますから、本当云うたら寂しかろうとみんなが予想した事であろうし、幹部の信者さん、又は見えとる先生方もそのつもりだったらしいけれども、あまり盛大に出来て本当に最近では一番だったと後から発表があっておりました。本当にこういう事はなかった。これは大変なおかげ頂いたと、この頃はもう信徒会が非常にさびれてしまいましてねえ、暇の時でも少ないのです。そういうような事が、例えば昨日の朝の御理解から頂きますと本当に何とはなしに緩んでおるぞと、お気付を頂かせてもろうて、私を始め幹部の皆さんがちょっとシャンとさせて頂いたら信心共励会があのように盛大になったという事です。教会から来ない所がいつもだいぶんあるそうですけれども、今度が初めてだと、三カ所の教会がみえてないだけで他は全部来とったと云うて、そういう発表もあっておりました。ですからなる程、親先生が云いなさる通りだなあと思う訳ですよね、みんながそのつどつどに決して農繁期だからお参りが少ないとか農閑期だからお参りが多いとかいう事じゃない。問題は中心の力だと、まあ云うならば・・・百人持てるなら百人は集まるんだ。どんな取り入れの真っ最中であろうと・・・・・と私がいつも申し上げるような事がね、まあ如実に昨日は物語られた訳ですよ。そこでです、例えば今日、一人に任すとその人が力を入れてとその人に任すという事。例えば昨日の皆さんのお話を頂いておりましても、到る所に出てくるのは本当に親先生任せにならせて頂いて、かく信心を進めておる、かくおかげを受けておるという話でした。だから、私は合楽の方達の場合はね、そんなら親先生任せになっときゃあと云うて任せるだけではなくて、それが任せられる事の為の精進を一生懸命なさっておられるという事です。云うなら任せるだけではなくて、任せてすがっておられるという事です。昨日の体験発表者の全部がそうです。任せてすがっておられる。そんなら任せてすがっておるという事は、どういう内容かと云うと、このすがっておるという事は、どうぞお願いしますお願いしますと云うのではなくてです、御神意を悟らせてもろうて本気で改まらしてもらおう、本気で研かせてもらおう、神様のお心に添い奉る、信心とはというそこがすがってあるんです。だから素晴らしいのです。
昨日もここの方達がたくさん発表された中に一人他所の教会の方が飛び入りでお話されましたですよねえ。けれどもね、そういう話はもう止めてくれという事だったですからねえ。ですから合楽の信心の方の発表と対照してです、今日は話を聞きに来とるのじゃない、とまだ話そうごたると言いなさったけれども、もうそん位で止めてくれと幹部の方が言うておりましたでしょうが。あれがそんなら合楽の方が語っておったなら、それこそ拍手してもう少し聞かせてくれと言ったに違いないですね。みんながこういう信心を頂きたい、こういう信心をみんなで頂く為にどういう修行どういう共励させて頂いたら、言うならあのような信心にならせて頂くかという事をです、言うなら合楽の方達はもう身をもってその事を体験しておる事を発表されるからです。
一人に任すという事でもね、神様にお任せするという事でも、もう一人に任せてさえおればと金光様にすがってさえおればというのだけじゃいけん。その任すという事にはね、やはり任すという内容はすがるという事だと分かる。すがる内容は、まあ月並みの言葉ですけれど改まる事以外にはない。研かして頂く以外にはない。御神意を悟らせてもろうて、御神意に添い奉る以外にはない、という事になる。そこんところを皆さんが一生懸命、いわば取り組んでおられますから話があのように生き生きとしてくるし、又それを聞く方達もです、私に云われた先生方やら幹部の方達が云われましたがです、「どうしてああ云う風に信心が育つか」と「先生は馬鹿んごとしとるばってんか、信者さん方が偉いからたい」と、「その馬鹿んごたるがなかなか出来ませんですもんね」と云うてから話した事でした。
ここの場合は、皆さんが本当に一人に任すと、というところをです、親先生一人に任すという生き方で皆さんがいかれて、どういう難儀な問題であっても・・
例えば生か死か、もう倒れるか起きるかという事でも、親先生が右とおっしゃったから右に進ませて頂いて、かくかくおかげを頂いたというようなお話、いや、
お取次ぎを頂いてお話をさせて頂いて必ずしも自分の思うようになるという事ではない。反対の事でもあるけれども、それが現在のかくおかげを頂いて来た元になったという風に発表されましたですよねえ、皆さんが。だからもう任せるという事はね、もうだから不平もなければ不足もない訳です。結果でどうこうという事じゃないのです。そういう腹が出来ての、一人に任すという事にならなければ
ここのところの御理解はね、一番最後に「草木でも心というたら一つじゃ、神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられるという」その一心を出すと、すぐおかげが受けられるという、そういう一心のいわば出し方、言葉で云う程にスッキリしたものでないでしょう。お任せをしとるばってん不安でたまらん、お任せをしとるばってん、やっぱり時には迷うてみる事があったというような事もありましょう。けれども、段々おかげを頂いて参りましてです、なる程、自分の思うごとなる事だけがおかげじゃない、思うようにならなかった事もお任せしておったおかげで、いわゆる今日おかげを頂いたのはその為であると分からして頂くところから、いよいよ一心が出てきた。そこでそんなら、例えば他所の人達からです、もう本当に素晴らしい信心が育っていきよると云われ、私も面目をほどこしたと申しておりますがです、そんなら又いよいよそれこそ吾にかえってみて、
と云うとそんなら今日の一人に任すと、という内容でもです、果たしてどの程度
スッキリしたものであるかという事を、いよいよ検討していかねばならん事になり、そこんところのおかげを頂ける為にいよいよ本気での修行に取り組まなければ度胸が出来んのだなあという事が分かります。そこで例えば人に頼めば相談にくれて物事はかどらずと、そんなら私共のおかげを受けたいという願いですけれども、様々な事がありますよねえ、願いの中には任せてすがってお願いをしよるとがたくさんありますよ。ところがね、お任せしておると云いながら思いながらです、もし物事がはかどっていないとするならば、おかげがはかどっていないとするならば、おかげの方向に行ってないように思われるならば、私はもういっぺん、お任せしてすがっておるという事を検討してみなけりゃいけん。
もう信というのはそこですよねえ。丁度算数のようなもんです。きちっとした
答えの出るところまで追求していくというのが信心なんですから、五と五と足したばってん十一になった。どうでもおかしいとやはり計算し直さにゃいけん、改めて自分達の信心を見直さにゃいけん。ははあ、ここのところがちょっとばっかり計算違いしとるなと、そういうですね私は生き方の信心、いかにもこの方一人に頼んでおるようであるけれども、はかどってないとするならば、今日私がお話する意味に於いてのこの方一人ですよねえ。厳密にそこのところの反省がなされていかねばならん。
草木でも心というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すとすぐにおかげが受けられる。私共は本当のおかげと実感出きれるところまでです、検討してみると
稽古させて頂くものだと一心に定めなければ駄目だと・・・。
例えば、弓の稽古をする。向こうの方に的がある。離れた所から何十本の矢を射ってその中に当たるともあれば当たらんともある。いわゆる的をはずれるのもある。全然検討違いの所に飛んでいくのもあろう。私はそういうね、弓の稽古をするような姿勢が信心には鋳ると思うですねえ。一心と定めてあるごたるけれどもです、なかなか当たらん。いわゆる稽古不足なんだ。だから神様が悪いんじゃない、こっちがまあだ稽古不足だという思いこみなんですよ。おかげを受けられんのは神様は、もう大地を叩く程に間違いのないもの、おかげは・・・けれども
こちらがおかげを受けられんのは、確かに的だけはそこにはっきり定まったけれども、こちらの稽古不足、いわゆる神様はまあだその事を通して信心の稽古をさせて頂いてござる、又自分も稽古させて頂いてやるという事にならなければならない、という事にです一心と定めなければならない。神様は絶対ななもんだとしてのもの、的があっちへ行ったりこっちへ行ったりしよるとじゃないですからねえ。的は定まっとるとじゃから。
昨日の皆さんのお話が素晴らしかった素晴らしかったと云われましたですがです、どこが素晴らしかったかと云うとです、的をしっかりとしているという事。
例えて云うと、渕上君が最後のところで云うとりましたでしょう、お参りするようになってから十何日目でした。お届けをさして頂いたら親先生がお書き下げを下さった。そのお書き下げに、まあだ高校生。なる程、自分でも頂いた時は何が何やら分からなかった。と云うておる。「信心とは喜びの追求」というお書き下げを頂いた。お書き下げ頂いたばってん、どういう事か意味が分からなかった。
それが毎日お参りしてくるうちにです、もうそこに目当てを置くと云うのですから素晴らしいでしょうが。だからこの信心によって頂く喜びをです、僕が中学時代にぐれて不良になりかけた、そういう人がたくさんあるから、そういう人達にこの頃から僕はお道の教師にならして頂こうかとまで云うたそうである。というようにですよ、そこにいわゆる的というのが置いてある。それに向かって一生懸命、だからそれが降ろうが照ろうがです、有り難いなと答えの出た時がおうた時ですね、云うならば・・・・・それを、その問題をひとつも有り難いと思わん、その問題を通してひとつもお詫びをせん、その問題を通してひとつもお礼を申し上げない。お礼を申し上げねばならない事、お詫びをしなければならない事、それでもなお痛いから痒いからと云うては願いもするけれど、焦点をいわばはずしての願いではいつまでたっても的には当たらんという事。そうなりましょうが。
皆さんが発表されましたその内容がです、そういうある意味あいでは、それはもう酷な言葉で云うなら血みどろなまでにです、昨日発表された方々は、平田さん当たりのように何から何までおかげ頂いとるという人達ばかりじゃないですから。けれどもね、そこへたどらせて頂いておる事がです、それこそ倒れ転びしながらも目指しというのは、はっきりしている。その倒れ転びしておる姿、又はその間の修行の姿を話されたから素晴らしかったんです。しかもそれをね、合楽の人達は楽しゅうその修行をしとるという事なんです。神様を絶対なものとして初めからかかっておるという事。おかげを受けられんのは、いわゆる物事が、そう
はかどらないのは・・・・・
善導寺の原さんが、昨日は発表者が少ない時には発表しようという事になっておられた。もしお話をする時には、こういうお話をしたいと原稿を前の日に持ってみえられた。私は読まして頂いておるからそれを知っているのです。
例えば私共がそういう焦点へ向かって信心を進めさせて頂いておりますがです、只、もし空転、空回りの信心しか出来よらんのに、本当のおかげを頂くという事はおそれ多い、勿体ない。たから今日もし神様がです、私に例えばたくさんのお金を下さるというような、おかげを下さるとおっしゃるなら、私はもうしばらく待って下さいと云うだろうという事が書いてありました。
いわゆる、そのように云うならば、石橋を叩いて渡る程しに 実な生き方で信心を進めておるという事。それこそ、もう本当に自分の思うごとなりさえすりゃ
おかげのごと思うておるというような信心からです、もし神様が今おかげを下さると云うならです、神様しばらくそのおかげは待って下さい、というような気持ちまでが、この頃は出来かかっておる事が有り難いというような事が中に書いてありました。合楽の方達の場合はね、そういうところが素晴らしいのですよ。私共の信心のいわゆる進め方というものがです、例えばいわゆる二十年前から申しておりました。「ついて来なされこのちょうちんに、決して苦労はさせはせぬ」
といったような御理解を頂きよりました。ですから、もう親先生任せにさえなっときゃ、絶対おかげ頂くがのと、もう一番初めの頃から椛目では皆さんが云うておりました。けれどもそれはですね、いわゆる二十年後の今日になってみるとそういう時代の親先生任せというのとは全然もう本質的に違っている。例えば、山を買わして頂きたい「いかんばい」と、それはもう手付けを打たんばかりのところまでいっとったばってん止めた、そしたら先生、おかげ頂いて買わんでよかった。こういうような、あれには事件のこんがらがった問題がついておって買うてどんおるなら大事の出来ますという事じやった。又「山を買います」と「今度はいっちょ、思いきって買うときなさい」買わして頂いた。おかげで七・八年も過ぎたでしょうか、やっぱり何倍かのおかげを頂いた。というようにですねえ、もう親先生が云いなさる通りにすりゃあ損もせん、云いなさる通りにすりゃあ必ず儲かるといったような意味に於いての親先生任せだったですね。それが二十年間のお互いの信心の歩みというものがです、昨日皆さんが各自に発表された内容に成長していっておる、育っていっておるという事がね、私は有り難い。そして今日の御理解を頂くならばです、一人に任すという事が、只親先生に任するという事だけじゃあない。任せるという内容はすがるという事だと、すがるという事は
どうぞお願いしますお願いしますと云うだけではなくて、すがって自分のおかげの受けられないガンと云うか、改まって行こう研いて行こう美しゅうならして頂こうという事に焦点を置く、そういう内容が一人に任せてすがっておるという、すがる内容にはあるという事をです、皆さんがもう克明にですねえ、二十年の信心でそれを体験していっておられるという事です。いわゆる本当の実力が身についていきよる事の楽しみを皆さんが感じていかれよるという事です。それでも、倒れ転びがあっております。それでもやはり迷いが起こる事もあります。けれども、ここではいつの場合でも、なる程親先生がね、こういうおかげを表しておって下さるから間違いはなかじゃろうという確信が、そういうひとつの大きいちょうちんが側にあるからそういう時でも迷わんで済むおかげになってくるのじゃないでしょうか。
先生は、この田植えの真っ最中に自分方の当番でもなかとに、他所から って
来たらハイと云うて受けてから、それはもう田植えの真っ最中だから少ない事は分かっとる、けれどもそれは私の信条だから成り行きを大事にしていく、それは黙って受けときなさいと云うて受けさせて頂いたが、昨日の朝頂いた、あそこからある意味でしゃんとしておかげを頂けばです、ここで共励会があったのでは一番最高だったでしょう。人が集まるという事に於いても、又共励の内容もそうであったと私は思うております。ですからなる程、例えばね、降るからお客さんが少ないとか照っておるから今日はお客さんがあるといったような観念をね、お互い捨ててしまいなさいと、私が云うような事をです、皆さんが私が表していくから本当にそうだという事に、その観念を無くしていく事に一生懸命精進さける訳なんです。農繁期じゃけん商売がゆっくりあろうという思い方を本気で捨てていけ、あの人がああ云うたらから、この人がこう云うから、この人がいけないからこういう結果になったとかいう事じゃなかて、その問題の真相というものはです、
そんな事じゃないて、神様のお心がそのように表れておるのであり、云うならば自分の心からの難儀なら難儀なんだから、それはそうばってんかあの人がああ云うとらっされんならこうなっとらんとまあだ云いよる。そういうところをですね、
やはり自分の心の中から疑いとか、迷いといったようなものを払うていく稽古ですからね、そう一朝一夕に出来るものではない。けれどもそんなものだと、いわゆる的だけはしっかりしたところへ置いて、云うなら信心とは喜びの追求だと、この中からいかにして喜びを射当てるか追求するか実感として有り難いと神様にお礼を申し上げられるかという事を目指して信心の稽古をさせて頂いておるという姿が現在の合楽の皆さんの姿ではなかろうか。だからそれがスッキリとしてきた時が神様も、又安心しておかげ下さる時であろうし皆さんも、又勿体ないとして頂ける時ではなかろうかと思うのです。ですからやっぱりそこのところを本気で稽古していかねばならん。
一人に任すということは、親先生一人に任すということではない。任すということの内容は、すがるということ、任せてすがるということだ。そしてそのすがる内容を聞いて頂いたですね。どうぞ。